「やりたくない」という障害

執筆:べとりん

 

「やりたくない」「やる気が出ない」ということは、一般に障害として扱われることはなく、本人の責任として扱われていることが多い。

しかしながら、実際に「生きづらい」様々な人から話を聞いていると、

・"自分の意志ではどうしようもない形で"

・"他の人にできることが自分にはできない(他の人と自分は違う)という形で"

「やりたいと思えない」「やりたいと思えることがない」

という感覚について語られることがとても多いように思う。

 

本稿は、現象学の概念を用いながら、どうして「やりたくない」という感覚が、

・"自分の意志ではどうしようもない形で"

・"他の人にできることが自分にはできない(他の人と自分は違う)という形で"

経験されるのかについて、考えてみたメモ書きである。

まだ未完成である。

 

 

「生存の障害/実存の障害」の項で書いているように、「実存」とは、「何らかの図式の中で何らかの向きに方向づけられており、今自分はその方向に進んでいると実感できているような存在状態」のことを指している。

つまり、実存には、

何らかの向きに方向づけられていること

その方向に進んでいると実感できること

の二つの条件があるが、「やりたくない」という障害は、①が満たされていない状態、つまり、「方向づけられていない状態」だと考えることができる。

 

 

ある人が「方向づけられる」ためのパターンを、大きく三つの理論を使って考えてみたい。

①ハイデガーの投企

投企(とうき)とはマルティン・ハイデッガーによって提唱された哲学の概念。人間というのは常に自己の可能性に向かって存在しているわけであるが、そのような固有の存在の仕方である。人間というもののあり方というのは、自分の存在を自分で創造するということであり、そのために我々は現在から未来に向かって進むということであり、そのために自分自身を未来に投げかけていくということが投企というわけである。我々人間にこれが可能なのは意味を理解することが可能なためであり、このことから物事の知覚や意識が構成されていく。そのときに自分と関わりのあるものが存在するということであり、関わりのないものは存在しないということになる。例えば社会に大勢の人間が存在しているとしても、その中で目に付くのは自分と関わりのある人間のみであり、その他大勢の人間は意識することなく存在していないも同然といった形にである。

wikipediaより引用

 

人間は、未来にある自己の可能性に向けて存在している。これが「方向づけ」である。そして、そのためには、未来において何らかの「自己の可能性」が描かれていなければならない。受験に合格するとか、就活に成功するとか、恋人ができるとか、それは何でも良いのだが、自分が未来に投げかける可能性として受け入れ可能なものでなければならない。

その自己の可能性が、受け入れ可能なものであるためには、条件があるだろう。

一つに、その自己の可能性が、自分にとって頭に思い描くことが可能なほど実現可能性がありそうに感じられるか、というポイントがある。例えば、来年から突然アメリカの大統領になる、という自己の可能性は、たとえそれがその人にとって魅力的な未来だったとして、現実的にあり得る未来としては考えにくいだろう。また、自己効力感(自信)が低い人にとって、「○○さんに告白してお付き合いを始める」という自己の可能性は、「ありえそうにない未来」として経験されるかもしれない。その場合、その人は「○○さんに告白する」という向きには方向づけられない。

次に、その自己の可能性が、「自分の在り方」として受け入れ可能なものであるか、というポイントがある。これまでプロサッカー選手になることを夢見て生きてきた子供は、プロサッカー選手になる以外の未来を考えることはできないかもしれない。親から「あなたはブサイクな子ね」と言われて育った子は、自分が実は美人であるという可能性を認めることができないかもしれない。その人の中にある、「自分とはこういう人間だ」という自己解釈や、その人の価値観と反するような可能性は、自己の可能性になり得ない。また、自分よりも強い他人から自分に解釈が与えられた場合、その解釈に違反する可能性を信じることはできないかもしれない。

なんにせよ、このような可能性を未来に描くことができれば、私たちは何かしらの「方向づけ」を自分に課すことになる。

 

②「まなざし」

まなざしとは、言うなれば、まだ何も描かれていない「未来」という名の均一な角材の中に、「可能性」という名の彫刻を掘り取っていく、彫刻刀のようなものだと言えます。まなざしによって「解釈」されることで、まなざされた対象は、何らかの可能性の中に「閉じ込められ」ます。まなざしは、相手の諸可能性を失わせるもの、相手に限界を与えるものでありながら、相手の可能性の輪郭を際立たせ、相手の可能性を作り出すものでもあります。

まなざしって何?の定義4で述べているように、まなざしは、他者を何らかの向きに方向づけます。他人に期待されること、他人に必要とされること、他人に評価されることは、その人の可能性を失わせるものであり、同時にその人を何らかの向きに強烈に方向づける(motivateする)ものでもあります。

まなざしを拒絶することによって、やる気が出なくなることについては、「まなざしのメタ認知モデル」にて紹介しています。

 

③メルロ・ポンティの図式

メルロ・ポンティの思想の「身体の志向性」に着目する。身体の志向性とは以下のようなものである。目の前で友人がふらりと倒れそうになったら思わず支えようと手が出るように、バスのボタンを見たら思わず押したくなるように、身体は常に何らかの向きに「方向づけられて」いる。そして、自分の周りの物は、無意識の層で私の身体と関わり合って図式を作り、私の身体を「方向づけて」いる。ドアノブは回す、ペンを持つ、自転車を漕ぐ、というように、私たちの身体は目の前にある何らかの物と関わるための一連の動きを知っている。

身体の志向性を感じるためには、「モノの方から」自分に訴えかけてこなければならない。「世界にリアリティが感じられない」(概念堕ち)などによって、「モノ」から意味を感じることができなくなることがある。「モノ」に意味を与えるのは「解釈」であり、解釈の権限が自分に集まり過ぎていたり、解釈の権限を他者に乗っ取られてたりすると、「モノ」に意味を感じることができない。逆に、「モノの方から」解釈が書き換えられるような経験は、モノに意味を与える。

 

以上、人は、①未来における自己の可能性、②まなざし、③身体の志向性 などによって「方向づけられる」。

それぞれの要素ごとに、「方向づけ」を受け入れるための条件があり、その条件は人によって異なる。

 


「方向づけ」は、やる気を出させる、その人に実存を感じさせるという側面もあるが、同時にその人に「義務感」を与えたり、「やるべきことが迫ってくる感じ」を与えたり、「価値観を押し付けられる感じ」を与えたり、「理想に手が届かない、ハードルを越えられないつらさ」を与えたりする。

そのため、私たちは「方向づけ」をフィルタリングする機能を持っている。具体的な例は、まなざしのメタ認知モデル過敏性逃避&別回路確保モデルで説明している。「方向づけ」の有害さに耐えられない場合、私たちは「方向づけ」を受け入れられず、拒絶してしまう。そのように考えてみると、次のような説明が可能である。

「他の人にできることが自分にはできない(他の人と自分は違う)という形で」「やりたいと思えない」のは、他の人が当然受け入れられるような「方向づけ」を、私は受け入れられないからである。なぜ受け入れられないのかは人によって様々であるが、過敏性逃避&別回路確保モデルに当てはまる人の場合では、「方向づけに対して他の人より過敏であるため」、「過剰な方向づけに耐える余裕や心の体力がないため」だと言える。「まなざし」のような、他人との社交の場でしかもらえないようなもの、たとえば他人からの期待や他人に何かすることを要請される経験は、それに過敏な人であるほど、その社交の場に入ることそのものを拒絶しなくてはいけなくなる。「方向づけ」に対して過敏であるがゆえに、どんな「方向づけ」もまとめて拒絶さざるを得ない。そのために「やりたいことがない」「やりたいと思えない」と感じている人は多くいるように思う。

 


「方向づけ」の有害性を考えてみるため、人間が「方向づけられて」いる時の状態を、いくつかのパターンに分解し、どのような状態だと「実存」を感じ、どのような状態だとそうでないのか、分類してみたい。

 

 ざっくりとした話になるが、ハイデガーによれば、実存の反対は「不安」である。ハイデガーは「恐怖」と「不安」を別のものとして分類し、「恐怖」は特定の対象から逃避や回避するように促す感情であるが、「不安」は特定の対象を取らないものであり、自分の存在そのものが定まっていないことへの不安であるとした。

 私自身、人から話を聞くときは、不安や絶望、死にたみや消えたみといったことは、分析の上でとても参考にしている。これらの感情が出ている時は、実存が脅かされているということになる。そのため、これらの感情が強く出ている時と弱まっている時を比較することで、その人の方向づけについて良い知見が得られる可能性が高い。

 実存が失われるときの方向づけのパターンを、4つに分類した。

 

 

・①対立型

 対立する向きに方向付けられ、どちらにも進めなくなる状態である。もっともよく見るパターンである。

試験の対策もしなきゃいけないのに、サークルの仕事を任せられてそれが終わらない、つらい、という時が当てはまる。

 自分による自己解釈と他人による自己解釈の対立という形で現れるパターンをしばしば見る。対立が極限まで高まると、「罪の意識」や「消えたみ」の感情を生むことが高い。

 

・②障壁型

 何らかの外的要因によって自分が方向づけられていた向きに進むことが困難になってしまった状態のことを指す。

サッカー選手を目指していた小学生が、事故で片足を失ってしまった場合などが当てはまる。

まだ方向づけに従って行動できている段階、絶望しきってない段階では、「障壁」となっている外的要因を対象にした焦燥感や怒りといった形で現れることがある。

 

・③虚無型(拒絶型)

 そもそも何の向きにも方向づけられていないパターンである。だが、現実的には方向づけが全くないということはほとんどない。実際のケースとしては、自分が何らかの向きに方向づけられていることが耐えられないために、「私」の範囲を小さくしたり、方向づけそのものを否定したりして、方向づけを自分から切り離そうとした結果として虚無型になっているパターンがほとんどである。そのため、①も②も、虚無型に移行することがある。

 たとえば、試験の対策もしなきゃいけないし、サークルの仕事もしなくちゃいけない、というときに、何もやりたくなくて、すべてがどうでもよくなることがある。試験なんて何の意味も無いじゃないか、と試験自体の意味を否定するときもある。自分に与えられた方向づけを破棄することで、虚無に陥ったパターンである。

 「漠然とした不安」や「絶望」、「死にたみ」などが発生しやすい。

 

・④透明型(幻想希求型)

 他の3つとはやや異なるパターンである。

 たとえば、「彼女は欲しいけど、実際に自分から女の子に出会おうとしたりモテるように努力したりはしたくない」という形で現れる。

 何かの向きに「方向づけられて」いるものの、何か行動に移そうとした途端に方向づけが失われてしまうタイプである。

 「何か欲しいもの、心から求めているものはあるはずなのに、実際に何かやろうとすると、 なんだかこれじゃないという気になってしまう」という形を取る。

 「自分」と「自分ではないもの(周囲の状況、他者)」が分離できない形で経験されている。

 そして、「私」ではなく、「私の周りの状況」の方が「方向づけられて」おり、自分の意志で行動できることがない。

 目指す自己の可能性(理想)の中に、そもそも「自分が何もしないで、状況が劇的に良くなること」という条件が含まれていることもある。

 現実にはほぼ在り得ないことが自分に起こること(「救済」とか「救い」とか)を自己の可能性として未来に投企しているタイプであり、

 「現実的に目標の達成を目指す行動」を取ってしまうことで、自分が「現実のもの」になってしまうことを嫌がる。 


①と②は「やりたいのにやれない」状態であり、これが先ほどに述べた「方向付け」の有害性が発揮されている状態だと言える。

①から分かるように、多すぎる方向づけは負担を強いる。②から分かるように、実現が困難なものに向きへの方向づけも負担を強いる。

このような状態のままにいることは疲れるので、③や④に移行する。


「やりたいと思えることがない」状態は、③と④である。

③は方向付けを削減した状態、④は方向付けを周囲や他者に譲り渡し、物事が良くならないのを周囲の責任にしている状態である。

先に述べたように、これは有害な方向づけをフィルタリングした結果として起こることがあり、必ずしも悪い状態ではない。


人は、自分が抱えられるレベルの「方向づけ」しか持つことができない。

そう考えると、

・"自分の意志ではどうしようもない形で"

・"他の人にできることが自分にはできない(他の人と自分は違う)という形で"

「やりたいと思えない」「やりたいと思えることがない」

と感じるのも、理解できるのではないだろうか。