「概念堕ち」の研究

執筆者:<べとりん>

 

「あの人とはもう別れてしまったけれど、あの人は今も私の胸の中に生きているの。

 付き合っていた時よりも優しいくらい。今のあの人以上に、イイ男なんて存在しないわ。

 

1.概要

私は他の人から相談の依頼を受けるなど、わりあい多くの人の生きづらさの話を聞く機会がある。

その中で、「概念になりたい」という言葉や、「他の人間が概念にしか見えなくなる」といった発言を幾人から聞いた。

また、私自身も、「概念になりたい」とか、「他の人間が概念にしか見えない」と感じる時がある。

 

ある日、当事者研究会の中で上記のようなことを話したところ、「概念堕ち」という言葉が生まれた。

(「概念堕ちしたい」とか、「周囲の人間が概念堕ちする」などと使用する)

とても面白い表現だと思ったので、ここで紹介する。

 

2.詳細


・サルトルの「主体」と「客体」

「概念」と「人間」の違いは、サルトルの言う「客体」と「主体」の違いによく似ている。まず、サルトルの「客体」と「主体」について解説する。

 

 「主体」とは、「周囲の物事や自分自身をみずから解釈する在り方」。対して、「客体」とは「自分から他者や自分を解釈することはせず、他人から解釈されることで存在できるような在り方」である。基本的に物体は「客体」であり、人間は「主体」である。

主体である人間は「自分は人間であり、今上司に怒られている」ということを自分で認識できるが、

客体であるコップは「自分はコップであり、さっきまでコーヒーを飲むのに使われていた」ことを認識できない。

主体は世界を解釈し、何が「現実」なのかを決定する権限(=解釈の権限)を持つが、

客体は解釈の権限を持つ主体によって、「現実」の一部であることを認めてもらわなければ世界の中に存在できない。


・概念とは

概念とは、意志や意識のない存在、周囲の他者によって「そういう存在」として定義されることによって生まれ、その定義の通りに振舞う存在である。 

 

具体例1

「神なんて概念に過ぎないよ」という発言は、

「神という存在は実在せず、周囲の人間の想像によって生み出されたに過ぎない」という意味を指す。

この時、「神」とは、主体である「人間」によって解釈されることで作られた「客体」に過ぎない。

 

具体例2

大好きなぬいぐるみ(仮名:マーちゃん)に悩みを相談している女の子にとって、「マーちゃん」は概念である。

マーちゃんはその女の子の想像によって生み出されているので、その小学生の想像の通りに振舞う。

マーちゃんは、女の子が「マーちゃんを想像している時にのみ」存在できる。例えば、マーちゃんに話しかけている最中に、マーちゃんの頭を叩いたとしたら、その女の子は「かわいそうでしょ!」などと怒るだろう。しかし、その女の子自身も、話しかけるのに飽きるとベッドの隅に放り投げたりするし、汚れれば容赦なく洗濯機に放り込む。洗濯機の中にぬいぐるみを放り込むとき、すでに「マーちゃん」はぬいぐるみの中にいない。

 

具体例3

PCでギャルゲを遊んでいる時、画面の向こうの女の子は、純粋な人間というよりは概念に近い。

女の子は、「私がPCを開いている時にのみ」存在できる。

「私がその女の子を必要としている時」「私がその女の子のことを意識している時」にのみ、女の子はこの世に存在している。このような在り方が「概念」である。

PCを閉じている時、その女の子はすでにこの世界からいなくなっている。

 

概念は、他人によって「存在が与えられるような」存在であり、自分の意志で自分の在り方を決定することができず、

また自分のことを自分でメタ的に認識したり、反省したりすることはできない。

概念は、自分がどのような存在であるか、解釈が一意に定まるため、シンプルである。

 

・人間とは

人間とは、自分にも他者にも解釈されるために、解釈が一意に定まらない複雑で曖昧な存在である。

他者の意図ではなく、自分の意志によって行動を定める。

 

具体例1

ギャルゲの女の子に対比させて、現実の女性について考えてみる。

当然であるが、ギャルゲの女の子よりも、現実の女性の方が「人間」である。

ある男が好きな女性に告白しようとするとき、

「○○さんは、こんな告白を受けたら、迷惑だと思うかもしれない、でも喜んでくれるかもしれない」

「○○さんは、私のことを異性として見ているかもしれないし、もしかしたらただの友達だと思ってるかもしれない」

などと考えているとする。

この時、女性は男性の意図や解釈を「超えた」存在として描かれる。

男の思考や意識を「超えた」ところに、「正しい現実」があり、その「正しい現実」を知ることができないので、男は悩んでいるのである。


このように、私の意識や解釈を「超えて」くる存在が、「人間」である。

「人間」であるためは、私よりも現実を決定する「解釈の権限」が強い(少なくともある部分においては私を上回っている)必要がある。

逆に言えば、私の現実解釈を書き換えてくるような存在のことを、私たちは「人間」と呼んでいる。

 

「概念になりたい」

「概念になりたい」とは、自分の意思や意志を持たず、自分を自己解釈することなく、

ただ「元からあなたはそういうものである」として誰かに定められたものとして存在したい、ということである。

(サルトルの思想を借りていえば、客体になりたいとか、即自存在になりたいとかということであろう)

 

私の経験で言えば、「べとりんという概念になりてぇ」と思ったことがある。

べとりんという概念そのものになりたい。私や他人の思い描く「べとりん」という概念になりたい。

 

「他人が概念にしか見えない」

心理学などを学び、人間を分析することになれば人間ほどこの状態に陥りやすい気が(個人的には)する。

もしくは、自分が考えたとことや、自分に関係のあること、もしくは(自分の)論理に適合することしか興味がない、という人にほど多い。

相手が私の解釈を上回ってこないため、相手が単なる「システム」としてしか理解されない状態。

 

もちろん、相手の全ての要素が私に予測できているわけではないが、

私の解釈からはみ出した要素は、「私が考慮する必要のないモノ」(下らないものとか、間違ったものとか、馬鹿な考え、客観性の無いもの)として棄却されてしまうために、

「相手によって私の現実を書き換えられる」という経験までには至らないのである。



おまけ:「人工/自然「エンターテイメント/芸術」

おまけとして、「概念/人間」の対立軸に似た要素を持っている対立を、いくつか紹介してみる。


人工物は「概念」に近く、自然物は「人間」に近い

・自然の特徴

・私がその対象を見ていないうちに、対象が「変化」する

久しぶりに外に出ると、「ああ、いつの間にか桜が咲いていたのか」と、季節の流れに驚くことがある。

自然とは、人間の意志を差し置いて、常に時の流れと共に変化しているものだ。

大いなる自然の意志、などと表現することがあるように、

私たちが「自然」と触れる時、私たちは、「現実(真実)」というものが自分の意図を超えたところにあるのだと感じる。


・カテゴリーに当てはめるような、「均一な」認識を嫌う

また、スーパーに売っているキュウリを見て、あまりにも大きさや形が揃っていることに不気味さを感じることがあるが、

元々自然とは不揃いで不均一なものだ。自然に育つキュウリは、どれも思い思いに捻じれたでヘンテコな形をしている。

カテゴリー化や均一な管理を嫌う性質を、私たちは「自然」と感じるように思う。

自然とは、常に変化し続ける、複雑で、不均一で、曖昧なものである。


・人工物の特徴

・人間が意図的に特に手を加えない限り、対象が変化しない

先ほど、ギャルゲーの女の子について述べたが、ギャルゲーの女の子は、いわば人工的に作られた「女の子」であろう。

ギャルゲーの女の子は、パソコンを閉じてしばらくした後に開いても、閉じた時と変わらない。

自分がその対象を意図していない間に、対象が自分の意図を超えて変化していることがない。

これはつまり、自分が持っている相手の「解釈」を、再会の度にいちいち書き換える必要がないということである。

私の頭の中にある「彼女」と、再びPCを開いた時の「彼女」は一致している。

一般に人工物はこういった特性を持つ。一度作ってしまえば、特に「修理」などを行わない限り、変化しない。

人工物は、常に同じ機能を果たし続けることを期待されている。


・何らかの目的に沿って作られており、なんらかの「機能」に還元して認識できる

人工物は、作り手の人間の「目的」に合った形に作られるため、基本的には人間の意図に従う在り方をしている。人工物は、何らかの名前を与えられ、その名前に沿って作られる。その人工物に求める機能さえ果たされていれば、私たちはその人工物の細部まで意識しない傾向にある。

人工物は、その人工物が果たす機能だけ理解していれば良く、その機能が壊れるまで、解釈を改める必要がない。

 

また、異論はあるだろうが、「エンターテイメント/芸術」も、「概念/人間」の対比と並列できるかもしれない。

「エンターテイメント」は、解釈の多様性がなく、見る側の解釈が書き換えられる心配があまりない。

メッセージ性もシンプルで、「このシーンにはこういう意味がある」という議論で「ある程度」答えが定まる方が好まれるだろう。

対して、「芸術」とは、「この作品はこういうメッセージを伝えたいのだ」というようなものが一意に定まらない。

見る側の現実の解釈を揺さぶり、見る側の手の届かないところ、今まで考えても無かった地点に「現実(真実)」がある可能性を提示する。

こうしてみると、「美」とは、見る者に対して、理屈を挟む間もなく自分を現実の一部分として採択させ相手の現実を構成する性質のことを指す、と言えるかもしれない。

そのため、「美」は、一時的にでも「世界が概念に見える状態」から、その人を救い出すような可能性があると思われる。

(実際、きれいな夕日などの美しいモノを見ている時だけ、概念堕ちが改善される、というような話を2、3人から聞いた。

 いろんな話を聞いている実感として、概念堕ちと「美」の感覚は何らかの深い関連性があると思われる。)