執筆者:<べとりん>
概要
・「生きるのに必要な何かの刺激に対して、過度に繊細な人」の取る行動についてのモデル。
・「<過敏な人>の場合、普通の人であれば負担に感じない刺激を、とても耐えられない負荷として感じてしまうことがある。この場合、<過敏な人>は、その刺激を受けとらざるを得なくなる可能性があるような状況から逃げ出す。代わりに、別の何らかのメディアを介することで、その刺激の代替物を受け取る。」というモデル。
図は上が普通の人、下が過敏な人。
詳細
主回路からの逃避
・普通の人は、「社交の場」において、多くの人と関わりながら生きており、そこからさまざまな刺激を受け取っている。(主回路)
・「人間的な情報」は、人によっては負担になることがある。例えば、他人の感情や、異性の存在、他者から評価される経験(まなざし)などは、負荷となることがあり、人によっては避けることが必要である。
・ところが、「社交の場」においては、逃げたいと思ったらすぐに逃げることができるとは限らない。つまり、刺激の受け取る量を自分でコントロールできないということである。また、受け取る刺激の質をコントロールすることもできない。
・そのため、「社交の場」に参加することは、耐えられない状況に放り込まれる危険性を伴う。<過敏な人>は、自分の意志では逃げられない状況に追い込まれるのを怖れ、「社交の場」に参加しなくなる。もしくは、その対象の情報が、頭の中で処理されないように無意識にシャットアウトするようになる。
副回路の形成
・主回路において必要な刺激を受け取れなくなった人は、その刺激に飢えるようになる。
・しかし、その刺激に対して過敏であるため、刺激を対象から直接受け取ることは危険である。
・そこで、「メディア」を介して、刺激を受け取ることに熱心になる。
・「メディア」とは、嫌になったらすぐ逃げだせるような対象である。もしくは、自分が受け取りたくない情報を選んでフィルタリングすることができるか、情報の濃度が減弱されているような対象である。
・「メディア」を介した情報は、刺激が弱くなるように加工されており、安全である。その代わり、その情報だけでは満足できないため、必要量の刺激を求めて「メディア」に強い思い入れを抱くようになる。場合によっては、依存っぽい行動になってしまうことも。
具体例
受動的な場合
・異性に過度の理想像を抱く思春期の男性は、現実の異性本人の前では話すことが出来ずに逃げ出してしまうが、インターネット上の見ず知らずの異性から「いいね!」を稼ぐことには躍起になる。
・人と話すのが苦手で、現実で人と関わる機会が少ないので、ソーシャルゲームにハマる。
・家に引きこもっていて何らかの活動に参加しないため、達成感と充実感を得るような経験がこのところないが、戦闘アニメなどを見る事でカタルシスを得ようとする。
能動的な場合
・人と関わるのが怖かったが、演劇を始めてから、役者として人前に出るのは好きになった。脚本によって、自分の振る舞い方が定められている場なら、人前に出られる。街中の目線は怖いが、客席からの目線は、作品を見に来ているので怖くない。
・人から評価されるような場に出るのが怖い。でも文章を書いて、それを読んだ人から感想をもらうのは楽しい。書いている最中は見られたくないが、出来上がった完成品を人に見せるのは好き。
<べとりん>の場合
・<べとりん>は他者の感情(という表現はなんだかズレているような気もする)に直接触れるのが苦手である。例えば、人の表情を見ながら話をするのがとても苦手である。(この研究を書く前に、一度相手の顔を見ながら、相手の感情を丹念に追いつつ話を聞いてみようとしたのだが、なんだか膨大な量の"なにか"に耐えられなくなり、別に悲しくもないのに泣きそうになった。)そのため、人と会う時は、ほとんど頭は自分の理屈の世界の中にこもっており、相手の声についてはきちんと聞いているが、相手の存在がシャットアウトされている。(もしくは、相手の感情について考えてしまいそうになった時は「概念」とか「社会」とか「人間」とかものすごく大きな括りに放りこむことで、その中身を深く考えないようにすることで自分を守っている。)しかし、それだけだと他者の感情に触れる機会が少なすぎて、今度はなんだか世界の無味乾燥さに耐えられなくなる。そのため、精神疾患の症例について読んだり、アニメを見たり、他の人に「闇の深い話をして」といって相手の経験を聞きに行くことで、他人の感情に触れたような気持ちになり、安心する。
・おそらく、他者の感情などに触れると、それを分析して理屈に分解してしまいたがる癖がある。そのせいで、人の感情に触れても感動しにくいところがある。
感想
<べとりん>
このモデルは、私が今まで話を聞いてきた人の話を、自分の経験も含めてまとめてみた。具体例は色々変えてある。
今まで聞いた話を思い返してみるに、それぞれ「副回路」の確保の仕方に、それぞれの人の経験知が現れているように思う。「副回路の形成」は、まさに「自分の助け方」の典型と言える気がする。一人一人の工夫の結果こそが「副回路」である。
「副回路」を上手く使えれば、「主回路」で問題を起こして困っている人にとっては、安全に必要量の刺激を摂取することができる。他の人の「副回路」についての知識を蓄積することで、「主回路」で問題が起こった時にも、対応策の選択肢を複数持っておくことができるのではないか。
私の場合、他の色々なものに触れても、それが無意識のうちに理屈によって分析されてしまい、無味乾燥なものになってしまう、というのが悩みである。私は他人からの好意や批判にとかく敏感なので、こういう能力を発達させてきたのではないか、と思う。それゆえに、他人の心の深いところの話を求めてしまうところがあるのではないか、と思った。
まだあまりきちんと説明できている気がしないので、別の研究で整理してみたいと考えている。