「届かない星」モデル

執筆者:<べとりん>

 

1.概要

「リア充になれない」「普通の恋愛ができない」「普通の大学生になれない」などの悩みをよく聞く。

本稿で取り上げるのはこういう悩み、「(なんとなく、"それ"になりさえすれば幸せになれるような気がしているのに)"それ"になれない」という悩みである。

 

大学生から生きづらさの話を集めていると、この類の話を本当によく聞く。

「どうも何かに熱中できない」とか「何か満たれない感じがする」とか「このままの状況が良いと思っているわけではないけれど、何かしたいことがあるわけでもない」などの悩みを抱える大学生、特にキツめのサークルやバイトなどの「"普通"の人が毎日熱心に取り組んでいるようなもの」がないことに何かしらの悩みを抱えている人に話を聞くと、特に何か診断名を持っているわけではないが、なんとなく「普通の社会人ならば当然もっているような特徴がない、もしくは当然できるようなことができない」という不全感や劣等感のようなもの(尊大な羞恥心とか臆病な自尊心などと言ってもいいような気がする)を悩みとして語る人によく出会う。

 

私自身も、なんとなく「"普通にできるべきこと"ができない」という漠然とした不全感のようなものを抱えている。

思い返してみるに、この不全感は小学校か中学校くらいから続いているような気がする。

なんとなく、やるべきことをやっていないような感覚、「普通」から外れているような感覚、誰もが当然のようにできることから、放り出されてしまっているような感覚。

この感覚について、メモ書き程度であるが、モデルを掲載しておく。

 

2.詳細

基本的な考え方

1.人間は、未来への「希望」が無くては生きていけない。

2.「希望」とは、「今の自分が辿り着きたいと思える未来」のことである。それは、「今よりも幸せな状態」でもいいし、「今やるべきことが片付いた状態」でもいいし、「今の幸せが歳を取っても続くこと」でもいいし、「今のつらい状態から解放されること」でもいいし、「自分の罪が罰せられること」でもいい。とにかく、今の私が考える「望ましい状態」が、その地点において実現されていることが必要である。

3.「希望が存在すること」の方が、「今幸せであること」よりも優先する。つまり、希望を存在させるためならば、「今の幸せ」は捨てられる場合がある。

4.「希望」の実現に向かって現実的な努力方法を考えることは、自分の頭の中で、「希望」を自分の手の届く範囲、つまり現実的な範囲に貶めることでもある。

5.社会は、「普通の幸せ」を物語として提供する。例えば、「リア充」はコミュ障やぼっちや非リアなどの「何かの欠落」と対比される言葉であり、「普通に幸せな人々」を指す言葉として機能する。結婚に対して「お幸せに」という言葉をかけるが、「結婚」→「幸せな生活」という考え方は社会的に流布している。「友達いっぱい」というのも幸せな生活の代表例として社会的に認められているだろう。だが、それが「どのように幸せなのか」は、社会は詳細には提示しない。

6.他に何か具体的な目標が無い人にとって、「普通の幸せ」は、「自分の手の届かない位置にあるが、がんばれば届きそうな位置にある幸せ」として解釈され、「希望」として機能する。例えば「普通の恋愛」という言葉を使う時、自分にはできないけど、一般の人はそれを通して幸せになっているもの、として認識されている。

7.「普通の幸せ」が希望として機能するには、それを具体性のないままに保ち、手の届かない位置になければならない。また、「今の自分の状態」と「"普通"の状態」は区別されるものでなければ、「普通」が「今よりも幸せな状態」にはならないため、「普通の恋愛」や「リア充」などの状態が、より理想的で手の届かないものとして美化される傾向にある。

 

具体例

 準備中